徒党と孤高

時代は移り変わっても、悩みは変わらないものだ。
小さいときから、なんか苦手なんだよな。徒党が。家族で、釣りに連れていってもらっても、一人で海の異国の漂流物を拾ってる方が楽しかったからかな。嫌な子どもだよな。
今は、徒党も孤高も、どっちも気に入らねえなあ。でも孤独は辛いなあ。
早川義夫さんの「かっこいいことは、なんてかっこ悪いんだろう」とつながる気がするよ。
http://d.hatena.ne.jp/tapio/20060127
太宰治さんの文章に賛同。青空文庫に感謝。
ーーーーー以下引用ーーーーー
■徒党について 太宰治
 徒党は、政治である。そうして、政治は、力だそうである。そんなら、徒党も、力という目標を以(もっ)て発明せられた機関かも知れない。しかもその力の、頼みの綱とするところは、やはり「多数」というところにあるらしく思われる。
 ところが、政治の場合に於いては、二百票よりも、三百票が絶対の、ほとんど神の審判の前に於けるがごとき勝利にもなるだろうが、文学の場合に於いては少しちがうようにも思われる。
 孤高。それは、昔から下手(へた)なお世辞の言葉として使い古され、そのお世辞を奉られている人にお目にかかってみると、ただいやな人間で、誰でもその人につき合うのはご免、そのような質(たち)の人が多いようである。そうして、その所謂「孤高」の人は、やたらと口をゆがめて「群」をののしる。なぜ、どうしてののしるのかわけがわからぬ。ただ「群」をののしり、己れの所謂(いわゆる)「孤高」を誇るのが、外国にも、日本にも昔はみな偉い人たちが「孤高」であったという伝説に便乗して、以て吾が身の侘(わ)びしさをごまかしている様子のようにも思われる。
 「孤高」と自らを号しているものには注意をしなければならぬ。第一、それは、キザである。ほとんど例外なく、「見破られかけたタルチュフ」である。どだい、この世の中に、「孤高」ということは、無いのである。孤独ということは、あり得るかもしれない。いや、むしろ、「孤低」の人こそ多いように思われる。
 私の現在の立場から言うならば、私は、いい友達が欲しくてならぬけれども、誰も私と遊んでくれないから、勢い、「孤低」にならざるを得ないのだ。と言っても、それも嘘で、私は私なりに「徒党」の苦しさが予感せられ、むしろ「孤低」を選んだほうが、それだって決して結構なものではないが、むしろそのほうに住んでいたほうが、気楽だと思われるから、敢(あ)えて親友交歓を行わないだけのことなのである。
 それでまた「徒党」について少し言ってみたいが、私にとって(ほかの人は、どうだか知らない)最も苦痛なのは、「徒党」の一味の馬鹿らしいものを馬鹿らしいとも言えず、かえって賞讃を送らなければならぬ義務の負担である。「徒党」というものは、はたから見ると、所謂「友情」によってつながり、十把(ぱ)一からげ、と言っては悪いが、応援団の拍手のごとく、まことに小気味よく歩調だか口調だかそろっているようだが、じつは、最も憎悪しているものは、その同じ「徒党」の中に居る人間なのである。かえって、内心、頼りにしている人間は、自分の「徒党」の敵手の中に居るものである。
 自分の「徒党」の中に居る好かない奴ほど始末に困るものはない。それは一生、自分を憂鬱にする種だということを私は知っているのである。
 新しい徒党の形式、それは仲間同士、公然と裏切るところからはじまるかもしれない。
 友情。信頼。私は、それを「徒党」の中に見たことが無い。
ーーーーー引用おわりーーーーー
おお。太宰はん。